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ichinicsの主にマンガ日記

「あげくの果てのカノン」1、2巻/米代恭

『あげくの果てのカノン』は私にとって、「自分の反応」に戸惑う作品だった。
物語を楽しむことにおいて感情移入というのは必須条件ではないと思うけれど、それでも読んでいる間は、主人公に対してある一定の印象をもっていることが多いと思う。
けれどこの作品の主人公「高月かのん」に対しては、2巻まで読んだ今もまだ、印象を決めることができない。

物語の舞台は、エイリアン「ゼリー」の襲来によって人々の生活が脅かされ続ける東京。“地上”では雨ばかりが続いていて、どうやら“地下”に暮らす人もいるらしい。
この近未来SF的な設定ともいえる世界で、描かれるのは極私的かつ偏執的な主人公かのんの恋だ。

相手は高校時代の先輩で、現在はゼリーと戦うヒーローとして活躍している。
かのんの働くケーキ屋をこの「境先輩」が訪れ、8年ぶりに再会して3か月――というところからお話がはじまるのだけど、
かのんの先輩に対する8年間の片思いは、気軽に感情移入できるようなものではない。
かのんは家に帰れば先輩の切り抜きをスクラップし、使用した紙ナプキンやコースターなどを収集し、ケーキ屋での先輩との会話は録音していてちゃんとバックアップをとる。そもそもケーキ屋で働き始めたのも先輩との再会を期待してのことで、でも先輩には奥さんがいる。
帯には「ストーカー気質メンヘラ女子」と書いてあって、確かにそういわれてみればそうだよな、と思う。
けれど、先輩を好きでいることについて

じゃあなんで、まだ好きかっていうと…
一種の道楽、みたいな…
好きでいることが?
ううん、違う。
もっともっと切実な…
ええと…なんだ…
…習慣、
生活、
生きがい。
〈1巻p99〉

こう語るかのんの言葉は、憧れを通り越して崇拝に近く、それを私はおかしいことだとは切り捨てられない。
高校時代の初恋で、こんなに素晴らしい人にはもう出会えない、と手がかりを求めてスタンダールの「恋愛論」を読むかのん。初めての「好き」という気持ちをどう扱えばいいかわからずに「恋愛論」を読んでしまうってめちゃくちゃ切実だしかわいい。
そんな風に、かのんとかのんの恋に対して、理解できる/理解できない、以前に好感のようなものを抱きつつ、でもあと一歩を踏み出そうとするかのんに対して、かのんがその恋/信仰を失ったらどうなってしまうのだろう、という恐怖心も抱く。
主人公が片思いし続けることよりも、恋が成就することよりも、その恋が失われることを恐ろしく思うってどういうことだ? というのが私の「自分の反応」に戸惑う点であり、この作品を魅力的に感じる理由なのだとも思う。

先輩はゼリーとの戦いによって幾度も傷つき、「修繕」をされるごとに容姿や生活習慣が変化していく。
2巻に入ってからは、そのように変化していく「神さま」に対する信仰を試されるような展開が待っていて、その最大の変化として描かれるのが主人公の希望そのものだったりする。
これは、その人をその人たらしめる基準はどこにあるのか、という問題でもあって、登場人物たちがここからどう行動するのか、まったく想像できなくて、続きがとても楽しみです。